■2013年03月

■私の履歴書 その13【閑話休題】

17歳の時にゴルフとの出会いがありました。

あれから40年の月日が流れましたが、ますますゴルフが
おもしろくなっています。最近はスコアにこだわらず、
マイナスイオンを感じつつ、楽しくプレーすることを
心がけています。

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■私の履歴書 その12

家族のことを差し支えない程度に話します。
話しすぎると個人情報違反で家族により追求されますので…


 1.電気製品未払事件

 アパートを借りて、テレビ・洗濯機・冷蔵庫等全てそろえて
新しい生活が始まりました。 
 1ヶ月くらいたった時、電気製品を全て友人からの後払いで
購入したことが妻に発覚、給料も安いのに(手取り○○万円)
どうするのよ!……と詰め寄られてしまいました。


 2.買物同伴事件

 近くのスーパーへ一緒に買物に行った時、妻との会話に
そっけない返事をしていたら、しばらく口を聞いてもらえなく
なり、朝ごはんを作ってくれなくなってしまいました。


  ………でも結構楽しい新婚時代でした。
 子供3人(長女・次女・長男)にも恵まれました。
 自分でいうのも何ですが、結構かわいらしく作ってあります?

■私の履歴書 その11

税理士試験合格で一番喜んでくれたのが妻でした。
28歳の時に結婚していましたので、妻にしてみれば
周りから無言の圧力もあったようです。
(合格していないのは嫁さんが……、などなど)

合格後すぐに独立を考えましたが、もう少し経営の勉強を
してからと思い、中小企業診断士の試験を受けることにしました。
基礎的な学力も少しついていたのか(?)、
この試験には2年間で合格することが出来ました。

そして34歳で独立、順調な滑り出しのように見えましたが……
様々な事件が起こってしまったのです。

■私の履歴書 その10

税理士試験は昭和49年から挑戦、55年の第30回の試験で5科目に合格、
合格証書が手元に届いたときは感無量で、その夜は床に入っても
目がさえてまったく眠れませんでした。

合格した内容は
 1年目:簿記論
 3年目:財務諸表論、法人税
 4年目:所得税
 6年目:相続税
という具合に合格しました。いわゆる国税三法合格です。
なお、簿記と財務諸表は必須科目です。

3年目、財務諸表論に合格したとき、税理士試験に通る!と思いました。
と、いうのも財務諸表論は苦手中の苦手、当時合格するとはとても思えなかった科目なのです。

ゴルフでいえば長い下りのパット、打っても入る気がしない……。
食べ物でいえばさんまの粕漬け。見てもまったく食欲がわかない……。
そんな感じですか……。


追伸:さんまは粕漬け以外では、刺身でも焼いても食べられる好物のひとつです。


■私の履歴書 その9

まわり道をしていましたが、元の簿記の世界に戻ってきました。
税理士を目指すといっても大学に行っていないので、税理士試験の受験資格もありませんでした。そのため日商簿記の一級合格への挑戦からスタートです。
合格まで2年間を要しました。

3回目の受験の時、69点で不合格というのもありました。ガックリ。
日商一級は4科目25点満点で一科目でも10点未満は不合格という制度ですが、私の場合全ての科目で10点以上だったのに69点。
……まあ何ていう運の悪さか。ゴルフでも一打及ばず、試験でも1点及ばず……。

気持ちを立て直し、再度受験、68点……。
このとき、専門学校の先生に言われました。
「武藤くん、日商1級は既に合格レベルに達しているから、
 税理士試験の勉強を始めなさい」……と。
この言葉に励まされました。

今振り返ってみれば楽しい思い出となっておりますが……。
その次の回に82点で合格、税理士試験へ挑戦できることになりました。
でも原価計算が最低点の10点、あぶなかった……。


この頃だと思いますが、美空ひばりさんの「人生一路」という曲に
はげまされました。あの東京ドーム公演で最後に歌った曲です。

■私の履歴書 その8

 経理学校は週に3回でしたので、残りの4日間は両親の働いているゴルフ場でキャディのアルバイトをしていました。キャディの仕事がない時はゴルフ場にある練習場で見よう見まねでゴルフのボールを打っていました。面白いスポーツだと思いました。

 一方、簿記の方は苦戦をしていましたが、3ヶ月間の勉強で日商簿記3級に合格し、上級コース(2級)へ進むことができました。
 上級コースに進んだころから簿記の勉強よりもゴルフの方に気持ちが傾き始め、学校に行っても考えることはゴルフの事ばかりでした。

 オレはゴルフのプロになると思ったのもこの頃でした。

 思ってはみたものの、両親から見れば、うちの息子はゴルフ場でバイトをしながら学校に行って簿記を一生懸命勉強していると思ってましたので、なかなか話をすることができませんでした。

 もんもんとしつつ3年ぐらいが過ぎたころ、意を決して父親に話したところ、

 「だったらオレとゴルフで勝負して、オレに勝ったらプロになってもいい」

 という事になり、佐倉CCで対戦することになりました。

 私も少しは腕に自信があったので、勝負には勝てると思っていました。


 結果は同スコア、再戦。


 忘れもしませんが、最終の18番で私の打ったドライバーショットはナイスショットでした。しかしセカンド地点に行ってボールを見たところ、大きなデボットに入っていました。結局このホールはダブルボギーであがってみたら同スコア……。

 1ヶ月後再戦は船橋CCで!この日は意気込んでゴルフ場に行きましたが、前半からドライバーショットが曲がりに曲がってどうすることもできませんでした。ハーフが終わったころから何か不思議にプロへの道をあきらめる心境になっていました。
 父親は安定したいいスコアであがっていました。

 この日以来、ゴルフのプロはきっぱりとあきらめましたが、しばらくは何もする気になれませんでした。

 父親は安心したようでしたが。

 現在我が家では、父親に一打負けたためゴルフのプロになれなかったということになっており、父親の自慢話のひとつになっています。

 まあ、それでもいいかなっと……。

■私の履歴書 その7

高校3年のとき、地元印西周辺の開発計画(30万人都市構想)が決定され、我が家の田畑も一部収用の対象となり、農業を続けていくことが難しい状況になってしまいました。
そんな中、母親は地元のゴルフ場のキャディに、父親も同じゴルフ場に運転手として就職してしまいました。残った田畑も一部を除いて売却してしまい、ここで農業を営むことは断念することになりました。

高校卒業後の進路については、何を思ったのか、これからは何を行うにしても簿記が必要になってくるのではないかとふと思いたち、当時ちんぷんかんぷんだった簿記の勉強をしに、千葉にある経理学校へ通うことになりました。

当時通ったその経理学校の隣に今、大同生命ビルが建っており、その中に私が加入しているTKC千葉会の事務局があります。なんとまあ、不思議なご縁を感じている今日この頃です。

■私の履歴書 その6

3年間の治療の甲斐もあって、中学3年生のときに結核を完治しました。
運動も普通の人と同じようにできるようになりました。

中学卒業後は、農家の長男坊ということもあって、地元の印旛高等学校農園科に進学、卒業後は農業を継ぐものばかりと思っていました。
高校時代の思い出といえば、農園実習のきつかったことや友人と二人、夏みつ葉の栽培に夢中になったことなどが思い出されます。

高校3年の夏休み中、学校のプールに泳ぎの練習に通い続け、25mを泳げるようになった事もいい思い出として、記憶に残っています。

農業簿記に出会ったのもこの頃です。当時は授業を受けてもちんぷんかんぷんでついていくことが出来ませんでした。
まさか将来、その簿記が自分の本業になるなどとは夢にも思いませんでした。

■私の履歴書その5

学校でもクラスメイトの何人かが同じような症状になっていたらしく
これはただ事ではないと両親も思ったそうです。

父親におんぶしてもらい、自転車でかかりつけの医院に急行、診察を受けたところ「結核」にかかっているとの事。
レントゲン写真を見せられたとき、父親は大変なショックを受けたとの事でした。


晩年になって、この時の状況を父親から聞かせられた事があります。

「オレはあの時、医者からの帰り道、お前をおんぶして自転車のペダルをこぎながらガックリとしていたんだ。やっとここまで育てた長男がまさか『結核』になっているとは……。家の生活も大変なときなのに……
そんな思いで家に帰ってきたんだぞ!」

 ……と。

それからの3年間は治療中心の生活でした。走ることは厳禁。週に1回お尻にペニシリンの注射、朝昼晩の薬、運動は一切禁止……。
中学2年までこの生活が続くことになりました。

■私の履歴書その4

2年間の幼稚園生活も楽しく過ぎ去り、昭和31年に地元の小学校に入学しました。入学式の当日は祖母に付き添われての登校でした。
校庭にある桜がきれいに咲いていた記憶が残っています。
小学校は幼稚園より近くにありましたが、それでも子供の足で片道40~50分前後はかかっていたと思います。

小学校6年生になったとき「便所落っこち事件」よりもはるかに生死に関わる大事件に襲われることになります。


ある日、微熱が出始め、最初はカゼだと思いました。
学校を休み、家で寝ていましたが熱が一向に下がりません。
しばらくすると立ち上がることもできなくなりました。
体を起こしただけでめまいに襲われ、体全体がだるく、今でもその時の気持ち悪さは記憶にはっきりと残っています。

両親もいつもとは違う何かを感じたらしく、学校にも連絡を取っていたみたいでした。

                       ……つづく

■私の履歴書その3

前回の続きです。



事件はお昼時に起こったそうです。以下は当時を振り返っての父親の話です。


 「メシ食った後、ラッタ♪ラッタ♪ラッタ♪と歌いながらお前は
  トイレにいったんだ。そしたら

  『ギャーーーー!』

  という声の後でデカイ泣き声が聞こえてきた。 
  あわててオレがトイレの戸を開けたらお前がトイレに落ちてたんだ。
  便器も割れていて、腰のあたりから血に染まってて、右足がトイレの中に落っこちていた。
  もう大変だったんだと……」

右の腰に今でもその時のキズが残っています。

■私の履歴書その2

物心ついた頃は、近くの田んぼでよく妹とどろんこ遊びをしていました。
 今の時代と違ってテレビもゲーム機も無かった頃でしたので、遊びといったら近くの林での木登り、田んぼでのどろんこ遊び、鬼ごっこで畑を駆けずり回る、などが主流でした。
 (自然の中でのびのび育った、という感じでしょうか)


 それでも親から見ると気の弱い子供に見えたらしく、4才になったときに近くの幼稚園に入園させられました。近くといっても片道2km、子供の足で通園すると約1時間近くかかる場所でした。


 このころ私にとっての一大事件が発生しました・・・・。



                        

■私の履歴書その1

千葉県と茨城県の境に手賀沼という沼があります。
 その近くにある農家の長男として生まれました。
 両親に聞いた話ですが、大変な難産だったそうです。
 予定日近くになって母親の容態がおかしくなり、リヤカーに乗せて
 病院に連れていったんだ、とよく話を聞かされました。


 昭和25年9月15日、玉のような男の子が生まれました。それが今の私です。


                             ……つづく。

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